五百羅漢寺

今日久しぶりに護国寺に行ってきた。護国寺では所蔵している仏像をかなり間近で見ることが出来る。というか見る人間と仏像を隔てるものがない(といっても触るのは厳禁)。仏像を後ろや真横から見ることが出来るのはここくらいではなかろうか。
さて仏像といえば東京国立博物館で10月から国宝を含めた仏像展があるらしく非常に見に行きたい(http://butsuzo.jp/)。
そこの紹介文にこうある

 仏教を信仰した国の中で、日本ほど木で仏像を造ることにこだわった国はありません。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本の仏像は金銅仏や乾漆像、塑像が主流でした。しかし、奈良時代後半頃から一本の木材からできるだけ像の主要部分を造り出す一木彫が盛んに造立されるようになると、それ以降、日本では仏像の大半が木で造られるようになります。本展では、日本人がこだわった木で仏像を造ることの意味を考えるとともに、そこで培われた良質な木の文化を通して日本人の心や精神性に触れます。

しかし仏像を見てその素材を意識するということはあまり無いのではないかと思う。大抵薄暗いところに安置されているということもあるかもしれないが、まず仏像を見て思い起こすのはそれらの題材となった神々のことではないかと思う。それは仏像が良く出来ていればいるほどそうなのではないか。
しかし、それらが単なる木材で出来ているということを意識しないではいられない仏像というのもある。それは作者の力量とは全く関係のないところでである。
目黒の五百羅漢寺目黒不動と並んでこの界隈では有名な寺院であるが、前者と異なりこちらは明治以降非常に不運な寺であった。まともに管理するもののなく、天災の影響などをもろにうけ昭和になったころにはかなり悲惨な、野ざらしといっても過言ではない状態であったという。そのため、本来は536体あった羅漢の像も200以上が失われてしまったという。当然残った300数体の仏像だって完全に無事というわけにはいかない。
五百羅漢寺の羅漢堂と本堂ではそんな羅漢の像を見ることができる。顔の一部が破壊された像、胸部に空洞がある像といった具合に大半の像になんらかの破損が見られる。それらを見るといくら見事に出来上がっていようとそれらが木をもとに人間によって作られたものであり、火をつければ簡単に燃えてしまうし、たたけば割れるし、刃物で切断することもできるのであるということを実感させられる。そして同時に逆説的にではあるが、単なる木材から見事な仏像を作り出す人間の技術の凄さというものも、五体満足な仏像よりもこれらの無残な羅漢様の方からから強く感じ取れた気がした。一見の価値ありです(有料だけど)。