ガス人間第一号

 1960年に本田、円谷のゴジラコンビが作成した東宝作品。これ以外にも何作か「〜人間」ものがあるらしい。
 東京で銀行強盗が多発。犯人はようとして知れず、その犯行方法もおおきな謎であった。鍵のかかった金庫に忍び込み犯行をおこなうといういわゆる密室犯罪。
 警視庁の刑事である主人公(三橋達也)は犯人のてがかりを追う内に偶然日本舞踊の家元藤千代(八千草薫)にたどり着く。調べてみると、彼女はここ数ヶ月で急に羽振りが良くなっていた。家宅捜索をおこなった結果、彼女の家から盗まれた紙幣が発見される。
 警察に拘束されるも、紙幣は支援者からの贈り物で、その人の名前はいえないと頑なに口を閉ざす藤千代。
 そんななか、警察に自らが犯人であると名乗り出た男がある。彼はその証拠に警官たちのまえで不可能と思われた犯行を再現してみせた。なんと彼は自分の姿を自由に気体に変化させることの出来るガス人間であった。そりゃあ密室もなんのそのだな。海野十三あたりだったらそんな小説書いてそうだな。
 見所はまず、ガス人間が気体へと変化するシーン。その特撮効果がなんか懐かしい。そしてなんといっても俳優陣。予告編で「若きベテラン刑事」というなんとなくわからんでもない形容をされる主役の三橋達也。話の鍵をにぎる八千草薫の美しさとその従僕役の左ト全の地味な存在感。
 では肝心のガス人間はどうか。いちばんきついのはガス人間である必然性がないところだろう、このストーリーでは。たんなる泥棒でもいいんだし。だって惚れた女に貢ぐためだけに強盗をやってんだし。というかオペラ座の怪人あたりにインスパイヤされてないか。まあ、ラストシーンくらいかな、ガス人間ならではというのは。個人的には中盤、みずからの正体を藤千代に知られたとき(どうやら土地を売って金を作ったと説明していたらしい)言い放ったこの台詞が大ヒット、「僕がガス人間だからどうだってゆうのだ」。それは結構重要な問題じゃねえか。
 万人に勧められる映画ではないような気はするが、私は決して嫌いではない。