香山滋「ゴジラ」

香山が原作を書いた「ゴジラ」と「ゴジラの逆襲」、そして諸事情で映像ソフト化できないという同じく東宝映画「獣人雪男」の原作小説と、各種エッセイの詰め合わせ。ゴジラ生誕50周年の去年出版された。
原作は映画と概ね同じ感じ。むしろエッセイのほうに興味深いものが多かった。
映画公開後、城昌幸渡辺啓助高木彬光らとやった座談会が収録されている。その中で、城が「ゴジラ」というタイトルにふれ、

香山君の名は消えてもこの名前だけは永久に残る(笑)

と冗談まじりに語っている。結果これは全く冗談ではなくなってしまっている。昨年、ゴジラ生誕50周年を報じた特集番組を幾つか見たが、その原作を書いた香山の名前を聞いた覚えは無い(「小説家に原作を頼み」というようなフレーズはあった気はするが)。香山の生誕100周年の年でもあったというに。
ちなみに香山はゴジラというキャラクターの人気が想像以上だったことにこう戸惑ったという

本来なら、原水爆を象徴する恐怖の姿だから、こわがってもらいたいところ、逆に親近感を生むという不思議な現象をもたらしてしまった。(中略)
つまり、漫画的愛嬌をたたえた「ゴジラ」が可愛くおもえ、どんなに乱暴をはたらいても決して憎めないのである。(中略)
ぼくとしては、原水爆禁止運動の一助のもと、小説の形式を籍りて参加したつもりであったが、これでは全く惨敗に近い。
ゴジラ」を生かして置いては、原水爆を是認することになるし、それかといって、ぼく自身でさえ可愛くなりかけてきたものを、これでもか、これでもかと、奇妙な化学薬品で溶かしたり、なだれ責めにさせたり、今もって寝覚めはよろしくない。よろしくないどころか、屡々夢にうなせれるのである。
だからぼくは「ゴジラの逆襲」を最後に、たとえどんなに映画会社から頼まれても、続編は絶対に書くまい、と固く決心している。
若し書くとすれば、それは、原水爆の象徴としてではなく、別の意味の「ゴジラ」として生まれかわらせる外には、絶対に今後姿をあらわすことはない。

(「ゴジラざんげ」より)
(余談だか香山が原作を書くのをやめた後でも、ゴジラ映画をつくるたびに東宝は挨拶にきたらしい。義理堅い。)
ゴジラって確かに原水爆の恐怖の象徴として出てくるけど、一方ではそういった爆弾を食らってもなお生きて猛威を振るうすさまじい生命力の象徴でもあるんだよな。とすると、ゴジラの圧倒的な力にアイデンティファイして、ストレスを解消するという楽しみ方もあるわけで、小市民としてそういった感性は凄く良くわかる。香山のいう「別の意味」が一体どういうものだったのかは想像するしかないのだけれど。