トクヴィル「アメリカのデモクラシー」第二部第九章より

今日に至るまで、アメリカに著名な作家はごく少数しか出ていない。偉大な歴史家もなく、一人の詩人すらいない。その住民は固有の意味での文学を、ある種の不信の目で見る。ヨーロッパの三流都市でも、連邦二十四州全体より多くの文学作品を刊行しているところがある。
(中略)
イギリス系アメリカ人の知的状態を判断しようと思う者は、そこで、同一の対象を二つの異なる様相の下に見ることになる。学識者だけを見れば、その数の少なさに驚くであろう。無知文盲の数を数えてみると、アメリカ国民は地上でもっとも知識の開けた国民に見えるであろう。

識字率が高いが国内に書き手がいないので海賊版がはびこったのか・・・かどうかは知らないが、トクヴィルアメリカ訪問が半世紀ほど遅かったらこの記述はどうだったのだろうかと想像してみる(実際の訪問は1831年。この本の出版は35年)。1830年代前半というと現代でも比較的知られている作家というとアーヴィング(「スリーピーホロウの伝説」)、クーパー(「モヒカン族の最後」)くらいだが、1830年代の後半から数十年でアメリカ文学史最初の黄金期を迎える。
エマソン「自然論」(1836)、「アメリカの学者」(1837)。ロングフェローハイアワサの歌」(1855)、ポー「大鴉」(1845)、ソロー「森の生活」(1854)、ホイットマン「草の葉」(1855)、ホーソン「緋文字」(1850)、メルヴィル「白鯨」(1851)、ディッキンソン・・・。現代日本でも大半が文庫で読める。
これだけそろっているのだから、さぞ大きく変わっただろう・・・と思うのはあくまで現代の視点での感覚。実際はたいして記述は変わらなかったのではないかと。エマソンロングフェローのように同時代人にも高く評価された詩人もいるが、ポーにしろメルヴィルにしろ、生前は今ほどの評価は得ていない(前者は貧困の果てに野垂れ死に、後者は生活のため筆を折り税関職員として生計をたてる)。ディッキンソンにいたってはその存在が「発見」されたのは20世紀になってからである。
メルヴィルの当時の知名度を表す逸話としてはペリーの日本への航海記にまつわるものがある。ペリーが自らの記録をもとに日本への航海記を書いてくれる作家を探していた。当時文名高かったホーソンに依頼したところ多忙を理由に断られた。その際ホーソンは自分の代理として海洋小説をいくつか発表していたメルヴィルを推薦した。しかしペリーがメルヴィルを訪ねることはなかった(知らなかったのか不適格とみたのかは不明だが)。実際に依頼していたらどのような代物が出来上がったのか興味のあるところではある。