岡本綺堂「地蔵は踊る」

HRS-21012007-08-09

半七捕物帖は語り手が元十手持ちだった半七老人から聞いた昔話を書き起こしたものというのが基本設定である。つまり明治〜大正(実際に出版されたのは大正になってからだが)から江戸時代を振り返っている。半七老人は語り手の「わたし」に時代の変わったのを感慨深げに話すが、現代のわれわれからみると老人が「変わった」と考えている「現代」である明治〜大正という時代が既に想像するしかないくらいの過去になっている。人や風俗、地名ですら変わっているが中には当然名残がのこっているものもある。
この「地蔵は踊る」はタイトルの通り踊りだす地蔵で評判をとる寺に起こった事件を取り扱っている。その冒頭、「わたし」と老人が以下のような問答をおこなっている。

「どの地蔵さまを縛ってもいいんですか」
「いや、そうは行かない。むやみに地蔵さまを縛ったりしては罰があたる。縛られる地蔵さまは『縛られ地蔵』に限っているのです。縛られ地蔵は諸国にあるようですが、江戸にも二、三カ所ありました。中でも、世間に知られていたのは小石川茗荷谷林泉寺で、林泉寺深光寺、良念寺、徳雲寺と四軒の寺々が門をならべて小高い丘の上にありましたが、その林泉寺の門の外に地蔵堂がある。それを茗荷谷の縛られ地蔵といって、江戸時代には随分信仰する者がありました。地蔵さまの尊像は高さ三尺ばかりで、三間四方ぐらいのお堂のなかに納まっていましたから、雨かぜに晒されるようなことは無かったのですが、荒縄で年中ぐいぐいと引っくくられるせいでしょう、石像も自然に摺れ損じて、江戸末期の頃には地蔵さまのお顔もはっきりとは拝めないくらいに磨滅していました。林泉寺には門前町もあって、ここらではちょっと繁昌の所でしたが……」

林泉寺と縛られ地蔵は今でもあり、茗荷谷駅から歩いてすぐである。町並みも寺も近代化しているが、「小高い丘」といった感じは今でもあり、同様に深光寺(馬琴の墓と恵比寿の像がある)、徳雲寺(蛇身男顔の弁天という珍しいものがあるが正月しか見れない)も残っている。良念寺は残ってない(少なくとも私たちは見つけられなかった)ようだが古地図などを見るとこの4つの寺が本当に並べて立っていたことがわかる。
文化の中心というのは変化がはやく、無くなるものも多いだろうがそれでも残っているものが多いのも文化の中心だったところだろう。「半七捕物帖」に収められた話の中には私の地元近くの話も出てくるのだが(半七が聞いた話として。つまり話の主役を務めるのは半七ではない。まあ茨城だしねえ)、その話に出てくる寺は今もあるのだろうか・・・。