ハックフィン再読2

 「ハック・フィン」の見所と言うのは多々あるわけだが、ハックの内面の成長という点から見ると捕らわれの身となったジムを助けることに決める瞬間というのは一つの山場と言っていいと思う。ハックが「なら俺は地獄に行こう」という有名な独白をするシーンである。
 ハックは逃亡奴隷のジムと共に奴隷制度のない自由州を目指して旅をする。自由な自然児と言ってもいいハックではあるが、完全な野生児というわけではなく、生まれ育った南部の規範から自由なわけではない。ましてやトムと共に埋蔵金を見つけた後(「トム・ソーヤーの冒険」参照)では厳格なダグラス未亡人の下で教育を受けている。つまり彼は他人の持ち物である奴隷を自由州に逃がすということは罪になるということを知っているわけである。しかし一方ではジムが自分に対しても親切で優しい好人物であることも解っている。そこにハックの葛藤がある。ジムが捕まってこのままでは競売にかけられると決まった時、自分の手でなんとか助け出そうか、それともジムの本来の持ち主に手紙を書いてジムを引き取ってもらおうか(所有権はその人にある)と悩む。彼の教え込まれた規範では後者が正しい行いであり、前者は一種の窃盗であるわけで当然罪深い行いになる。ただ後者を実行すればジムは酷い目にあうことは必定である。そこでハックは罪をおかすことになろうともジムを助けだそうと決心する(だから「地獄」に行くことになってもしょうがないという境地に達するのである)。
 一人の少年の成長を描いた名シーンであり、私も最初に読んだとき正直に言うと少し感動してしまったのだが、ハックがこういう心境に達することが出来たのは彼とジムの間の友情や、ハックが自由というもののありがたみを他人よりも深く感じているなど色々な要因があるとは思う。ただ最近再読してみて以前読んだときには考えなかった要素に気がついた。ハックが人種的偏見からある程度距離を取れているのは、駄目白人中の駄目白人たる父親を身近に知っているというのが結構大きいのではないかと。判事に泣きながら「真人間になります」と誓ったその夜に判事からもらった服と酒を交換し、酒盛りの末にベランダから転げ落ちて骨をおるという素晴らしき駄目人間。そのくせ(それだから?)人種的偏見は人一倍(第6章の演説はステレオタイプであるが故に見物)。ジムと比較したらどっちが愛すべき人物かなど議論の余地もない。特に父親に対して命の危険まで感じていたハックにしてみればいうまでも無い。
 考えて見れば駄目親父の系譜からアメリカ文学を見るみたいな研究というのはありそうだな。リップ・ヴァン・ウィンクルからはじまって、ポール・オースターの「偶然の音楽」くらいまでたどれそうだし。