山田風太郎「明治バベルの塔」

筑摩文庫の「明治バベルの塔」読了。山田風太郎の明治物の有名どころで読んでいないのはこれだけだった。一部短編を除いた主要所はこれでそろった。
明治物には連作短編が多いがこれは純粋な短編。幸徳秋水やお鯉さんのように複数の話に本人、または言及のある人物がいるが、話自体には関連がない。
一番面白かったのは標題作。これは黒岩涙香が自身の新聞「万朝報」に「客寄せ」としてのっけた暗号文の話。この暗号は一種の懸賞で、暗号を解くとある場所を指していることがわかる。そこにいくと懸賞金が置かれているといった仕組み。日本ミステリの親の一人ともいうべき涙香を主人公とした話に暗号というミステリ初期からある(「黄金虫」など)伝統あるスタイルを組み込むあたりがうまい。
その暗号文にある有名な歴史的事件が関係してくる。
主要人物は涙香と、幸徳秋水。サブキャラとして内村鑑三ともう一人有名人が登場する。幸徳秋水が協力した地方代議士といえばわかる人にはわかるかもしれない。
幸徳、内村は当時、万朝報の社員だった。マルチな才能をもった涙香とキリスト教思想家の内村、後の社会主義者幸徳というのは後代から見ると不思議な取り合わせにも見える。
彼らはそれぞれ自分なりの正義感を持ち、現在の政府に対して思うところがある(だからこそ同じ新聞社で共に働いている)。ただしその信念、性格の違いからかそれらの正義感は時として食い違い、互いに思うところもある。
特に新聞の利益をまず考えなくてはいけない涙香とより純度の高い理想を目指す幸徳の間の微妙なみぞは見所のひとつ(内村鑑三も「信仰」というフレームがあるが、他の二人と比べて穏やかに書かれており、目立った対立は描かれてはいない)。これは後年、日露戦争に対しての姿勢の食い違いから内村、幸徳両名が涙香と袂をわかったという史実を踏まえてみると興味深さが増す。
涙香は「無残」という日本最初期の創作ミステリの書き手かつ乱歩らに多大な影響を与えた海外ミステリの翻訳で日本ミステリ史に名を残している。
また翻訳に関してはミステリに限らず、幅広いジャンルのものを手がけており(これも新聞の客寄せの一環)、「ああ無情」、「岩窟王」という現代でも通じる邦題は彼の手によるものである。
それ以外にも結構色々やっており、この作品にあるような暗号懸賞をいかにも考えそうな人物なのである。
そういう面から見てこまかいなあと思った描写がいくつかある。
まず幸徳が社長室に入っていくと、涙香が一人で五目並べをしているシーン。それが何か?と思われるかもしれないが、涙香は五目並べが得意で、「連珠」という新形式を考案し万朝報に必勝法などを載せたりしているのである(どうやら今では国際連盟とかあるらしい)。
そしてなんといっても冒頭。時の総理桂太郎の妾問題をすっぱぬいて嬉々としているシーン。万朝報では第三面にスキャンダル記事のようなものを掲載し、それがいわゆる三面記事の語源となったという。女性の境遇を改善するため妾の実態を知る必要があるといううたい文句を盾に、著名人たちの私生活をすっぱぬいていたのである。明治31年のそれらの記事(この作品の舞台の数年前)は今、「弊風一斑畜妾の実例」という本にまとめられていて読むことができる。
伊藤博文、山形有朋、西郷従道といった元勲らや鴎外、北里柴三郎や元大名家の当主、鳩山家、三省堂店主、有隣堂店主、朝日新聞記者、寺の住職など様々な階層の人の住所、愛人の名前と経歴などがずらっと並んでいる。普通に番地が書いてあるのだ。私が今住んでいるところの近くの寺も載っており、当時の住職のなまぐさぶりが赤裸々に書いてある。なんというか、やることがすごい。
予断だが、伊藤博文の記事の出だしが面白かった。

大勲位侯爵伊藤博文の猟色談は敢て珍しからず世間に知られたる事実も亦甚だ多しと雖も茲に記する事実の如きはけだし珍中の珍、秘中の秘たる可し。

山風明治ものでもその好色ぶりはしっかり描かれてる(エドの舞踏会などで)けど、ホントにだらしなかったんだな。